息子がカリフォルニアで50キロのレースにでる。途中、12キロ地点では快走。こういう長距離は山、谷、をつきぬけて走るので、観戦は普通できず、めずらしく、走っている彼をみて、心が踊る。反面、何時間も待ちながら、私はたのまれても50キロ歩かないな、と思う。
ゴールでひたすら息子を待ち続ける。5時間後、やせこけた鶏の骨柄のような男の子がびっこをひきながらゴールにむかって走ってくるのがみえる。息子でないことを祈る。アナウンサーがゼッケンの番号をよみ、大声で『ニューヨークのクリストファー・マック!Go, Kristoffer!』と叫ぶ。やはり、息子とわかり、胸がしめつけられる。長距離を速いスピードで走る人たちは、だいたいいつもレースの前半は一緒のグループで話しながら走る。息子と話をし、膝をひためた瞬間を見ている人たちはゴールのところに集まってくる。ただ優しく見守る。がんばれとも言わない。無理する必要はないと最後まで心の中で言っていてくれていたのかもしれない。5時間8分でゴール。目指していた記録をだせず、悔しさでいっぱいの息子は言葉もでない。走り終えた人たちが握手をしにきて、彼の背中をたたく。彼らが一番息子の心情をわかるのでしょう。どうしてそれほどの痛みを我慢してまで、走るの?、と我慢できずに思わず聞いてしまう。走りきらなかったら、自分を許せなかったと思うと、つぶやく息子。痛みよりも、目標を成し遂げることをえらび、それで本人が幸せならと、口をつぐむ。若いなと、心の中で思う。そうしたら痛んでいた心がなごみ、降伏の幸福を経験。見守る親の年の功。
2月25日、101歳でマラソンを走りきり、引退をしたかたのニュースをみる。自分の幸せのために走るとおっしゃっている。息子さんの死から鬱におちいり、85歳で鬱克服のために走りだしたということ。
3週間前、娘に会いにいく。久しぶりの夕食なので、特別にデザートを注文。アメリカのデザートは本当に大きい。
デザートを口にして、娘が一言。”I am so happy.”
人それぞれの幸福。
久美子